2007.08.17

離島医療の体験記です。「住民から生きることを学びながら」

愛媛県 上島町魚島国保診療所長  長井志津佳 

「住民から生きることを学びながら」

はじめに

私は、本稿のテーマに掲げられるような理念を意識しないまま、へき地である山村と離島の国保診療所での勤務を続けてきて、気がついたら12年が過ぎていた。ただただ、その地域に山積する医療、福祉、保健の問題を解決しようと、微力ながら、孤軍奮闘して、自分自身の研鑽を積み、地域に密着してきた。そして、時代の医療事情の潮流に翻弄されながら、いま、かろうじて、この過疎化の激しい瀬戸内海の小さな離島・魚島の医療に関わっているといったほうがよいと思う。
そのようなわけであり、私が地域医療に入った背景と、山村や離島の実情に合わせて私なりの医療努力をしてきた経過なら紹介できると考えて、躊躇しながらも筆をとらせていただいた。本稿のテーマとする問題に十分的が絞れていないことを、まず初めにお詫び申し上げる。

地域医療に入ったきっかけ

地域医療に入ったきっかけは、漠然と抱いていたエコライフに対する憧れだった。
私は4歳から東京の新宿区四谷に育ち、都内の学校に通って大学までを過ごした。しかし、小児期の春・夏・冬の休みは、ほとんど母の実家のある石川県小松市で過ごしていた。町のどこからも田園と白山を望むことができ、自転車に乗って公園に遊びに行ったり、写生に出かけたりするときの爽快感を想像しては、学校が休みになる前から、いつも、わくわくしていたものである。この小児期の体験が、私を田舎好きにしたのだと思う。
医学部卒業後は小児科を選んだが、後年、祖母の主治医になりながら、私の関わっていた特養で看取ったことや、現在も高齢の両親を抱え、自宅で自ら介護をしていることが、地域包括ケアの基礎になっているように思う。
いまから35年以上も前に、リウマチ様関節炎で寝たきりになった曾祖母を介護した母から、寝たきりから、リハビリで再び歩けるようになることを学んだ。そして私自身は、慢性心房細動、慢性心不全、破裂を繰り返した巨大肝嚢胞、変形性膝関節症の祖母の主治医になりながら、4年間の看護の末に看取った。いままた、慢性閉塞性呼吸器障害と気管支喘息、慢性心不全の、認知症の進行が心配される父と離島で暮らし始め、介護の大変さを味わっている。そのうえ、甲状腺がん術後の長年にわたる放射線頸部潰瘍と反回神経麻痺を伴う気道狭窄と嚥下障害を持つ母をつぶさに観察しながら、長命なるがゆえに無残に老いてゆく様を、患者さんや自分の将来に重ね合わせて厳しく現実を受け止めている。
高齢者を診察中に観察できることは、ごくに限られており、身内を介護してみて初めて把握できたり、理解できることの多さに驚いている。高齢者の嚥下の生理機能や、物忘れを自覚し始めたその心の動揺や、認知症が進んできて辻褄の合わない混乱の様子も、その例である。
私は東京慈恵会医科大学を卒業後、母校を出て、実家からほど近い慶応大学の小児科の医局に入局した。未熟児室、麻酔科などの短期研修を終えて、新設されて間もない聖マリアンナ医科大学で後期研修を行った。夜間、小児外科に急性虫垂炎の患者さんを送った場合、手術を最後まで見学していて、腹壁を、そっと縫わせてもらうことが叶った時代でもあった。その後は、都立清瀬小児病院で各科の専門知識を学んだあと、結婚を機会に、北海道の札幌、そして旭川に住み、北海道大学医学部の小児科免疫学研究室に所属しながら、全道に広がる医局の派遣病院に短期出張をしていた。道内は広く、新生児を、雪の中、救急車で2時間以上も遠い救命センターに搬送したこともあった。
さらにその後、米国国立衛生研究所に留学したが、米国での生活は日本のへき地でも役立ち、宅配や通販も利用して、買いだめをし、自力でものを解決するライフスタイルは似ていると感じている。
医師になって20年を過ぎ、大学の関連病院を辞めて国保の診療所を希望した理由は、開業では、コストのことを考えると、診療の装備などに十分投資できず、患者さん中心の思い切った医療ができないのではないかとの懸念からであった。しかし、国保診療所においても、時代とともに地方の財政状況が厳しくなり、過疎化も進む一方で、診療所の赤字削減にも苦慮することになった。

初めての、へき地医療

平成7年、帝京大学小児科の出張病院を辞めて、秋から本格的に、島根県邑智郡大和村においてへき地医療を始めた。現在では合併して美郷町になったが、広島県三次市と大田市の総合病院までは、山道をひたすら走ってどちらにも救急、車で1時間はかかる、江の川の両岸に長く延びた人口2,200人の村だった。その村の唯一の医療機関として国保診療所(大和村国保診療所。現在の美郷町国保大和診療所)があった。私は内科の経験は加算してもわずか2年で、腹部エコーも胃カメラの手技も十分ではなく、へき地への赴任は不安に満ちたものだった。
役場の前の道路ですら、日中に人影をほとんど見かけず、むかしのお正月のように静まりかえっていた。村の産業は林業と農業で、当時の村の高齢化率は38%ほどだったと記憶している。年間約35名の人が亡くなり、10人から15人の子供が誕生していた。まず、大学や大病院しか勤務したことのない私にとって、校医、検死、特別養護老人ホーム医、産業医、保険会社の健康審査、住民健診などの役割も一手に担う多様な診療内容は興味深いものだった。独居高齢者も多く、亡くなって数日経過してから発見されることも珍しくなかった。村で亡くなる方のほとんどが診療所の診察を受けていたので、お通夜に必ず行ってお参りした。
へき地医療に飛び込んでみて、想像していたのとは異なっていたことがたくさんあった。当時は介護保険も始まっていなかったし、もちろん「地域包括ケア」という言葉も耳にしたことはなかった。信号のない村の端から診療所まで車で2、30分もかかるのに、定期バスも通っていないため、通院の足のないお年寄りは往復5千円もかけてタクシーを利用していた。そのため、月一度の受診がやっとという状況である。役場と何度も話し合ったが、地元のタクシー会社がつぶれるからと、とうとう、通院バスは出してもらえなかった。
また、山に囲まれた集落は民家が散在しており、往診に行くにしても目印になるものが何もなく、とくに夜間の往診は、地元の看護師さん同伴でなければ困難な状況であった。地域外人が山林に入って自殺者したり、江の川に車ごと転落したり、農作業中のトラクターの横転による事故死、立ち枯れの巨木が倒れ頭部と体を直撃して死亡したりしても、目撃者がないため、数時間から数日は発見されない状態である。都会にいたときには自覚したことがなかったが、大水による道路の陥没や、落石などの自然にまつわる災害や事故を目の当たりにしたり、診療所住宅には野生のキツネやタヌキの訪れる環境に住んでみて、人間は地球上のほんとうに小さな生き物であり、自然に育まれて共存しているのだと身をもって実感し、多くの患者さんの出会いと死から生を学ばせてもらった。
総合病院の専門医に検査が必要な場合、足の便も悪く通院にはおおむね1日がかりとなり、経済的にも豊かではない地域ということを考えると、患者さんの症状や病気の状況がどの程度なら専門医受診を勧めるべきか、いつも悩んでいた。

生活主体を考えることの重要さ

それまでの総合病院に勤務していたときには、病気ばかり診ていてなかなか把握できなかった患者さんの経済面、家族構成、遺伝情報や体質、食事などの普段の生活全体を総合的に考えなければ、治療も予防もできないことに気づいた。地元の看護師さんや施設のスタッフから情報収集し、往診などで患者さんの生活状況を観察することは、へき地診療の基本のように思われた。田を耕し、自給自足の生活が主体で、白菜や大根などそのときどきの畑で採れるものしか食べず、お酒と贈答された菓子が家にあり、車で出かける生活だから、糖尿病をはじめとする栄養指導は、具体的に提案しても限界があり、頭を悩ませた。
社会福祉協議会からのお弁当の宅配とデイサービスは行われていたが、本格的なリハビリ指導のスタッフもヘルパーさんも未だいない時代であり、保健師さんの役割はいま以上に大きく、医師との連携を密にしていた。そのような状況もあり、老健施設やデイサービスセンターでのリハビリや褥瘡指導に力を入れ、健康教室にも熱が入った。あるいは、看護師さんにお願いして、患者さん宅へ出向いてもらって服薬状況の確認を行い、再び、診療所で調剤分包したものを、その地区に住む看護師さんが通勤の帰りに届けることといったこともしていた。
精神科の入院が必要な患者さんを、1時間以上、自ら車を運転して三次市の総合病院に連れて行ったこともあった。往診して、診療所での検査が必要な歩けない老人を背中に負ぶって、家から車に乗せて運ぶこともしばしばである。在宅ケアやターミナルケアはさらに大変で、一日2回から4回の往診に連日出かけ、点滴の管理やおむつ交換などを診療所のスタッフ6人で行っていたが、週末は2名の医師だけで行っていた。そのころは、介護の要員が少ない村で、どのようにしたら在宅医療がスムーズに行えるかに頭を悩ませていたが、結局のところ、医師が率先して取り組むしかない。いま考えると、在宅ケアのはしりであり、その基本的な考え方は現在でも変わりがないのだと思う。
大和村での勤務の最後の時期に、ようやく介護保険がスタートして、診療所も新しくデイサービスセンターと隣接して建てられたので、4年半の勤務を終えて後任の医師に引き継ぐことになった。その最後のときに、私たち2名の医師は、わずかな金額ではあったが寄付して、それを基金に、婦人会がボランティア活動を行えるよう促した。

離島医療に移って

次に、長崎県の国保連合会の依頼を受けて、北松浦郡の福島、鷹島、大島で、1か月から3か月間の医師不在の期間を補うために離島医療に従事することになった。その後、上五島の離島・宇久島からの要請により、私は町立病院の分院に一人勤務して1年問いた。人口は4,400人と多いものの、九州本土の大村や佐世保までの搬送には、高速艇で1時間半、自衛隊ヘリでの搬送は要請から2時間もかかった。しかし、本土への救急搬送を行うと一回10万円から15万円の費用がかかるため、役場は搬送をあまり快しとしないなど、医療事情の無理解には苦しんだ。また、精神疾患の患者さんに困り果てて、総合病院の精神科の先生に、面識もないまま、失礼を承知で電話でご指導いただいたこともあった。宇久島は私の経験した離島診療のなかでもっとも就労条件と医療事情が厳しく、体力的にも精神的にも負担がかかり、1年以上続けて勤務することができなかった。
こうして、瀬戸内海中央に浮かぶ当時の人口350人の離島・魚島村国保診療所に移り勤務して、今年で6年目に入った。広島県の因島から郵便船で50分のこの島も、全国で市町村合併が進むなか、平成16年には、やはり離島ばかりの弓削町、生名村、岩城村の3町村と合併して上島町となり、人口も8,300人となった。国保診療所は魚島だけであり、他の3島には開業医の先生がそれぞれ1名ずついる。隣の島同士でも、地理的条件や産業(漁業、造船業など)、高齢化率(33%から49%)、人口(3,721人から261人)もまったく異なるために、医療、福祉、保健予防の均一化は大変困難である。住民の2人に1人が65歳以上の高齢者が住む魚島は、とくに若い労働力が不足している。魚島では、合併前から、診療所には欠かせない看護師さんすらもときどき欠員という状況であった。そのため、診療所の事務員にも、薬の効用や副作用、救命、感染などの診療に必要な知識はなんでも徹底的に覚えてもらい、住民の方々にも、医学知識の啓発・普及や教育に取り組んできた。
さらに、魚島はデイサービスも週3回しか開けず、宅老施設などはいつさいないので、高齢や病気で生活が成り立たなくなると島から離れざるを得ないため、合併前には施設の建設を提案したものの叶わなかった。急な坂と階段を降りないと診療所にも来られない環境で、押し車も途中からしか利用できないところも多くある。足腰の痛いお年寄りは、家から外に出ずにじっとしていて、スーパーマーケットはもちろん、でき合いのおかずが買える店もないに等しく、親戚が食事を届ける以外にないといった状況で、そんなお年寄りの生活を支えるには想像以上に手がかかる。医師も、看護師、レントゲン技師、ヘルパー、リハビリ指導など一人何役も担って、やっと医療が成り立つ地域である。往診なども一回では問に合わず、何回か診療所と患者さん宅を往復して、血液検査や点滴をしたり、車いすで迎えに行ったりと、診療というよりも看護や介護に近い業務の多い毎日である。

首長や住民の理解を得るのが第一

いままでも、どこの地域でも、町長選挙のたびに国保の診療所・病院は首長さんと議会の考えに左右されてきた。そのため私も、挫折しないで、一地域で定着することのむずかしさを感じてきた。とくに、昨今の地域合併により、それまでせっかく先輩の医師や医療スタッフが苦労して築き上げてきた地域包括ケアのシステムが頓挫したり崩壊したりしているのは、とても残念なことである。
魚島は合併によって上島町となり、役場は船で40分も離れた弓削島に置かれている。また、町としては初めて国保診療所を管轄することになった。そのため、こうした離島における医療の現状を、首長さんをはじめとする役場の方々に理解してもらうことは至難の業であった。診療所には、看護師さんが2年近くも不在のまま補充されず、地域包括ケアのプランづくりにも意見を挟む立場になく、もどかしさを感じていた。しかし、最近になってようやく、地域の長老でもあり有力者でもある開業医の先生方や議会の議長さんなどを巻き込みながら、じっと忍耐し、実績を積みながら、少しずつ地域医療に対する理解を得て、改善される方向に来ている。地域包括ケアがうまくいくためには、地域住民の参加やその支援がもっとも重要な条件の一つではあるが、それだけではうまく行かない。何よりも大切なことは、いかに首長さんを含む地元の有力者と親しくなり、話し合いの場を多くつくり、理解を得ることができるかにかかっているのではないかと思う。
上島町でも地域包括ケアのプランの作成が進んでいる。実際にその地域の特殊性も盛り込んで充実した内容にするためには、全国国保の先輩の方々がいままで構築してきたものを基礎にしながら、有効なケアづくりができるように知恵を絞っていくことが私の使命であると自覚している。

おわりに

以上、私の医師としての歩みや12年間にわたるへき地離島医療への取り組みを紹介させていただいた。そしていま、地域連携病院の医師との交流も大切にして、連携病院や医師会の勉強会にはなるべく出席するようにしている。その夜に定期便がなく、島に戻れず、いつもホテルに泊まらなければならない状況での勉強会参加は、かなりの動機づけが必要だが、日常の孤独感から解放されるし、自分自身の診療レベルを少しずつ高めることによって、新しい病気を見つけたり、少しでも診断に近づき治療がうまくいった場合など、ささやかな楽しみが生まれる。
さまざまな地域の患者さん人生の一部に、病気を通じて関わり、私はみなさんから「生きる」という大きな課題を学ばせてもらえる立場を、大変幸せに感じている。